片っ端から人の持っているスマホを叩き落としていく妖怪、スマホ落とし。人通りの多い駅などによく出現する。ただしそれはスマホ使用者の割合がその場の人口の65%を超えた場合に限られる。妖怪スマホ落としはちょうど65%目を踏んだ者の前に必ず現れてスマホを叩き落とし、ついでその周りにいる使用者のスマホもすべて同じように叩き落としてまわるのである。我々はふとした時にスマホを触りたがるものだが、多くの人がそうするとスマホ落としが現れて大変なことになってしまうので、繁華な所ではスマホを手にすることが避けられるようになった。特に65%目のスマホ使用者は大勢を巻き込む惨事の引き金を引いたことになってしまうから非常に気まずい。妖怪召喚の責任は本来そこでスマホをいじっていた者すべてが負うべきはずだが、トラブル発生の原因を特定の誰かに押し付けたうえで寄ってたかってその者を吊し上げることが大好きという人間の習性のせいで、被害者の一人にもかかわらずたまたま65%目だっただけの人が不当にも非難の集中砲火を浴びてしまうケースが往々にして発生する。一瞬にして多数のスマホが叩き落とされてしまうから誰が引き金に手をかけた人物だったのかを見いだすことは難しいのだが、そんな中でも、人は時に誤判断の可能性を度外視してまで「犯人」を見つけたがるものらしい。このように我々人間の嫌な心理を絶妙に刺激してくる行動様式をそなえた妖怪のおかげで、人類は公共の場でのスマホ使用に極めて慎重になった。スマホを使われると困るコンサート会場や学校教育の現場でも、いちいち不正使用を摘発したり没収したりするような対策を取らなくても、壁に「スマホ落としが出ます注意」と書いておけば誰もスマホを使わなくなった。スマホの「ながら使用」が社会問題化している昨今これは望ましい傾向なのかもしれないが、望ましい結果を招来した経緯が上述の通りであってみれば両手を挙げて喜ぶ気にもなりにくい。
それにしても不可解な点は、妖怪スマホ落としが65%という割合をどのように算出しているかである。実はこれについては色々なところで実験が行われ、SNS上で報告されている。なぜか個人住宅などの私的空間には現れないので実験は公共空間で行われることとなるが、特に多いのは高校の教室での実験である。1クラスの生徒40〜50名程度が次々とスマホを手にしていき、何人目で妖怪が現れるかを検証するというものだ。「特に多い」とは言っても、ひとたび彼奴が現れたらそこにいる集団の65%が手からスマホを叩き落とされるわけで、そうなれば大抵のスマホはディスプレイが割れるなどの被害に見舞われるのであるから、わざわざそんな阿鼻叫喚を招くようなリスクを取る物好き集団の絶対数は多くない。とはいえ一定の数の報告がSNSを通じてもたらされるのは事実であって、65%という数が見いだされてきたのもひとえにそういった実験報告の積み重ねのおかげなのである。
たとえば40人の学級での実験によると、25人が同時にスマホを使っていても何も起きないが、26人目が使い始めた途端にスマホ落としが現れる。40人中の26人というのはまさにピッタリ65%である。そして複数の報告によれば40人学級であれば例外なく同じ結果が出たのであり、65%という数はどうもかなり確かな値なのであろうという見解が世に広く共有されるに至ったのは決して不自然なことではない。ただそれらの実験によってもいまだ究明されていないのは、65%という数値を算出する基盤であるところの母集団の人数を、一体この妖怪がどのように数えているのかということである。ある40名の教室での実験では、25人がスマホを手にしたところで偶然担任の教師が教室に現れ、その教師がたまたま自分のスマホを手に持っていたことから予期せぬ形で妖怪が出現し、彼の所有物を含め26台のスマホが叩き落とされてほとんどが破損した。この教師は生徒たちの実験を邪魔しなおかつ彼らに大損害をもたらしたということで猛烈な顰蹙を買ったが、生徒思いでバランスの良い価値観を持っていたことから信望のあつい人物ではあり、そのおかげもあってか特にこの事件が生徒やその保護者の間で問題とされることはなかった。それはともかく、一方やはり同じく40名の他の学級では、25名のスマホ使用者の中に突如スマホを手にした担任教師が入室して26人目のスマホ使用者が思いがけず誕生してしまったものの、このケースでは何の怪奇現象も起きなかった。これらほとんど全く同じ2例のうちなぜ前者にだけ怪異が発生したのか、説得力のある理由を提示できた者はいない。後者の例では最後に教室に入ってきた担任教師が若くて美しい女性であったことから、妖怪のスケベ心により何らかの手心が加えられたのではないかという説がまことしやかに唱えられて一定の支持を得たりもしたのだが、そもそも40人の生徒集団に教師1人が加わって合計41人になったのであるから、その41を母数に取れば26という数の割合は63.4%にとどまり、65%には達しない。だとすればむしろ、同じ数値状況のもとで妖怪の出現した前者の例の方が計算に合わないと言えるのではないだろうか。このあたりの基準の不明瞭さがいまだ解明されぬ謎として残されているというわけなのである。
ことほどさように妖怪スマホ落としの出現規則というものは不可解であり、突き止めたかと見れば例外が現れ、今度こそ見破ったかと思えば意外な新事実に過去の知見が崩れ去る。こうした検証者たちの挫折を世の人々は「科学の敗北」とこき下ろし、検証者は検証者で安易な批判者たちの見識の狭さをさげすむ。しかしそもそも我々は、妖怪という存在の人智を超えた神秘性を忘れているのではないだろうか。神秘も広くいえば自然現象、自然現象とは森羅万象の絶えざる相互作用の結果としてただそこに自ずから然るものなのであり、人類の、クジラとイルカの区別さえ叶わない程度の認識能力をもってしたところで、我々には妖怪の行動原理を再現可能な形で正確に把握することなどできるわけがないのである。
もっとも記者は、なにも人類が無能だなどと嘯きたいわけではない。ある自然現象を観察して何かの神秘を感じ、神の定めた規則性を見て取ることができそうだと思っても、その現象を分析しようとすると、詳しく見れば見るほど何も見えなくなっていくのはむしろ当然のことである。秋に木の枝から枯れ葉が離れる。葉は右に左にと揺れながら地面に落ちる。その揺れ方には一定のリズムがある。しかしその動きを撮影して詳しく分析すると、動きが繰り返される周期は数値上バラバラであることが分かる。にもかかわらず、やはり我々はそこに何らかのリズムの存在を感じるのである。それこそが自然の神秘なのである。妖怪スマホ落としの行動原理もそのような神秘として畏敬の念をもって見守っていく必要があるだろう。
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今日はついに家人が妖怪スマホ落としの被害にあってしまった。東京は品川駅の改札口にある時計塔の前で知人と待ち合わせをしていた時のことだったそうだ。何とかクロックと呼ばれている、その背の低い時計塔の場所が分からず迷っている知人とLINEでやり取りをしていたところ、手元を見ている視野の外から突然に節くれだった手が伸びてきて、哀れな家人は自分のスマホを叩き落とされてしまった。叩き落とされたスマホはシリコンゴム製のジャケットを装着していたので、結構な勢いで地面に落ちたにもかかわらず何の損傷も受けずに済んだのはまことに幸いなことであった。また、怪異発生のきっかけが誰だったのかを詮索したがる下衆な人間がその場には居合わせなかったこともはなはだ運が良かった。
被害を受けていたく動揺しているとはいえ妖怪に至近距離まで肉薄される貴重な経験を得た家人を若干うらやましく感じた記者は、なお収まらない動揺を無駄に刺激しないよう気をつけつつ、スマホ落としの姿は確認できたのかと尋ねてみた。すると、老人のような手と白いボロ布をまとったような出で立ちを一瞬目にした以外、家人は何も見ることができなかったという。従来報告されてきた数多くの目撃事例と何ら変わらない話に、正直なところ記者は落胆を禁じ得なかった。というのも、今まで各地で何度も出現して片っ端からスマホを叩き落としてきたにもかかわらず、この恥ずかしがり屋の妖怪はいまだ一度もその姿をハッキリと人類の目に焼き付けたことがないのである。
妖怪スマホ落としは必ずスマホ所持者の視野の外から現れる。当然ながら所持者はその時スマホを見ているので、出現に気づいた時にはもう目の前に節くれだった手の甲があり、防御の体制を取る間もなくスマホを叩き落とされてしまうのである。そして、叩き落とされたスマホを慌てて拾い上げ、この野郎と思ってまわりを見回した時にはすでに妖怪の姿はない。家人によれば、自分のスマホを拾い上げていると時計塔周辺にいた他の人たちからも次々と短い悲鳴が上がり、物体が地面に落ちる鈍く柔らかい音、あるいは硬く乾いた音がそれに続いて聞こえてきたとのことである。鈍い音を立てたスマホはわが家人のようにケースが耐衝撃性に優れていたはずだから破損することもなかっただろうが、硬い音を響かせたスマホは無念にも多少の損傷を免れなかったであろう。
この妖怪が人の目になかなか入らないということに話を戻せば、家人は自分のスマホが叩き落とされた時に周囲でも次々とスマホが落下する様子を確認したものの、その現象を作り出した張本人を視認することはできなかった。つまり人類は、妖怪スマホ落としが他人のスマホを叩き落としている姿を見ることができないのである。悔しいことに、それは過去すべての出現例においてそうであった。
実は、偶然視野の隅にその顔かたちを捉えることができた目撃者もわずかに存在する。彼らはその顔貌を「生きる気力を失った滝藤賢一」「痩せこけたユースケ・サンタマリア」「年をとった満島ひかり」などといった表現で形容している。人ではなくカマキリのように見えたという証言もある。しかし、目撃したとはいっても視野の中心にきちんと捉えてまとまった時間観察できた者は皆無であり、妖怪の姿形を詳細に記述するには依然として情報が足りない。飛蚊症患者が自分の視野を飛び回る黒い影の形を正確に把握できないのと同じ理屈である。
ところで、妖怪スマホ落としの生態というか存在のありかたというか、そういったことについて家人が発した疑問は興味深いものだった。それは、この妖怪が1体しか存在しないのかそれとも何体もいるのかということである。
家人によれば品川駅での出来事はそれはそれは目覚ましいもので、自分を含め、すべての人がほとんど同時にスマホを叩き落とされたという。妖怪スマホ落としは今回もその特殊な能力を遺憾なく発揮したわけである。多くの人が行き交う駅の改札口前ということもあり、それぞれのスマホがいつ落とされたのかを正確に計測することなど土台無理な話であろうが、ざっくり言ってあれほど短い間に1体の妖怪がすべてのスマホを順番に叩き落として回るのは不可能なのではないか。そこで家人は「妖怪スマホ落とし複数説」を提唱するのである。
確かに、過去の証言の信憑性に疑問はあるにしても「滝藤賢一」と「満島ひかり」と「ユースケ・サンタマリア」、そして「カマキリ」が同一の存在を形容する表現だとは到底思えない。しかし一方で、絵文字でいえば😱というような顔をした1体の妖怪がそれを目にした人の主観によって滝藤賢一なり満島ひかりなりユースケ・サンタマリアなりあるいはカマキリなりに見えたのだとすれば、それも人間の視覚の不確かさに鑑みて決してあり得ない話ではない。
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時がめぐり、今年も出会いと別れの季節、春がやってきた。就職、転職、卒業、入学、それぞれの理由で多くの人が今まで慣れ親しんできた環境を離れ、新天地に足を踏み入れる。そうすると必然的に人と人の間にコミュニケーションの機会が増え、コミュニケーションが増えるとスマホの使用も盛んになる。多くの人がスマホを使用すると、そこに妖怪スマホ落としが出現する。
妖怪スマホ落としが人類の前に姿を現すようになって久しいが、例年この季節になると特に頻繁にニュースに取り上げられる。もはやその所業は春の風物詩になったと言ってもよい。親戚や知り合いの新入生新入社員がせっかく手に入れた新品のスマホを早速叩き落とされて悄然としているのを見ると、多くの人が手を染めることからは距離を置け、くれぐれも世の流行趨勢には気をつけよ、と記者は老婆心ながら読者諸氏に警告しないわけにいかないのである。
記者がこの妖怪に並々ならぬ関心を寄せてきたことは読者にとってもはや自明であろうが、家人の指摘によって気付かされた大問題、つまりスマホ落としが果たして単数なのか複数なのかということについて記者は特に注目し今も考え続けている。
この問題を研究するにあたっては、すでに世界妖怪学会において豊かな議論の蓄積があることを見逃すわけにいかない。単数か複数かが問題になったのは妖怪スマホ落としが初めてではないのである。過去に論じられた最も著名な例である妖怪サンタクロースについて、学会の最高権威である生麦女子短期大学家政学部民俗学研究科の牟田尻仙三郎(むたじりせんざぶろう)教授は先行研究を以下のようにまとめている。記述の所々につい記者の個人的な感想も混じってしまうことについては平に容赦を願いたい。
妖怪サンタクロースはなぜ12月24日の深夜、世界中に散らばるおびただしい数の子供たちに対してほぼ同時にプレゼントを届けることができるのか。一つの説明は、サンタクロースがフィンランドに居住するたった一体の妖怪であり、それが光をも上回る超常的速度で世界中の子供たちにプレゼントを配達して回っているのだとする考え方である。12月24日深夜、妖怪はフィンランドの住居からまず北極点に移動する。そして南極を目指しソリを走らせつつ、途中すべての家庭に煙突から侵入し子供にプレゼントを配る。南極に到達したら進行方向を真逆に転じて北極に向かい、やはり途中の子供たちにプレゼントを渡してゆく。この1往復は人智を超えた速度によって達成されるが、往路を通じて南極に達するまでの間に地球はわずかに自転しており、北極に戻る復路ではその分だけ経度が加算された地点をサンタクロースは通過する。こうして、復路では往路で立ち寄ったのと異なる家にプレゼントを届けることができるのである。そして、ブラウン管テレビの画面を高速で左右に走査していく電子ビームの軌跡さながら、妖怪は南北の往復を地球が360度自転するまで繰り返してゆく。それにより地球上すべての子供たちがそれぞれの午前零時においてプレゼントを落手するという寸法である。この驚異的な移動の様子が分かりにくいなら地球儀を想像してみればよい。地球が軸を中心として回転しているのを横目に緯度尺に沿って超高速で南北の往復を繰り返しつつ、そのルート直下に位置するすべての家庭に立ち寄ってプレゼントを置いていく存在、それが妖怪サンタクロースである。地球という巨大な慣性系から独立してこのような挙動を示すことができる超常性はいかにも妖怪らしく神秘的であり、またフィンランドにおいて実際にその居住が確認されてもいることから、妖怪サンタクロース単数説は長い間世界妖怪学会において定説となっている。
一方近年になって複数説も台頭してきている。これは、クリスマス・イヴになると世界中の子供たちの保護者がサンタクロースにメタモルフォーゼし、我が子にプレゼントを供給するのだという説である。その瞬間においてはすべての保護者が人としての固有の人格を喪失し、ひとしく妖怪サンタクロースという非固有的、集合的存在となる。しかしひとたびプレゼントが自らの手から離れると妖怪は個々に元の人格を回復し、我が子にとってかけがえのない保護者へと戻っていく。この複数説は単数説のあまりの荒唐無稽さ——いくら妖怪とはいえ移動速度が速すぎる——に対して有力な反論を提供しており、徐々に学会で支持を獲得しつつある。
要するに単数説は極めて高い移動速度と地球慣性系からの独立に超常性があるとし、複数説は世界各地の保護者がいっせいにメタモルフォーゼするという同時多発性と瞬間的な人間個性の喪失に超常性を認めるわけである。サンタクロースをめぐるこれらの議論を追っていくと、妖怪という存在がいかに我々人類にとって驚異的であるかを改めて感じさせられる。
牟田尻教授は、妖怪スマホ落としについても同様の単数複数問題が提起されるべきだと主張する。品川駅など人が密集した場所での一斉スマホ叩き落とし事件は、1体の妖怪が超常的速度をもってスマホを次々叩き落として回っている(単数説)か、あるいは複数の個体が同時多発的に発生している(複数説)かのどちらかで説明できる。教授はどちらの説が正しいかについて現時点では慎重に態度を保留しつつも、いずれにせよ超常的現象が介在していることは間違いないと強調している。
また、学会には所属しない在野の研究者にして実は本物の妖怪でもある水木しげるは、かつて妖怪墓場鬼太郎と妖怪ぬりかべについて独自の興味深い研究成果を発表したことがある。妖怪水木しげるの説によると、墓場鬼太郎は間違いなく妖怪目玉親父のもとに生まれた単数妖怪であるが、ぬりかべについてはそれが単数妖怪であるのか複数妖怪であるのか不明だという。確かに鬼太郎とぬりかべが行動を共にする様子はそれを目撃した多くの人類によって記録に残されているが、果たしてぬりかべがそのすべての記録において同一の個体であったのか、はたまた実はそれぞれに異なる個体であったのかは記録の内容から検証することができない。これは考えてみれば当然のことだ。なぜなら、そもそも人類にとって妖怪はこちらに危害を及ぼしてくる可能性が高い敵対的存在であり、そのような存在には各個体固有の名称など与えられないからである。分かりやすい例を挙げれば、自分が愛着を抱くペットなら人はその猫にタマという固有の名をつけるかもしれないが、よく畑を荒らしにくる例の豚に似た猛獣であれば単数だろうが複数だろうがイノシシという総称で呼ぶだろう。このように、総じて敵対の対象である存在について人は「個」と「類」を区別しないものなのである。ぬりかべも、残された記録では画一的にぬりかべと呼称されているだけだが、実はある記録に書かれた個体は父ぬり平・母ぬり江のもとに生まれた長男ぬり之輔だったのかもしれないし、他の記録に残っている個体はぬりニコフ・ぬりザベート夫妻の間に次女として生を享けたぬりッサンドラだったのかもしれない。しかし記者にとってもまことに遺憾ながら、研究のための資料はすべて人類によって書かれたものであり、そこには妖怪の「個」と「類」を区別しない人類の認識の限界が否応なく刻み込まれてしまっている。たとえ水木が本物の妖怪であり何らかの超常的な研究能力を身につけているとしても、このような資料の制約をいかんともしがたい以上、彼にはぬりかべの真実を検証する手立てはないのであった。妖怪水木しげるにできないなら当然他の誰にできるはずもない。
妖怪スマホ落としも、妖怪水木しげるが研究対象とした妖怪ぬりかべと同様に、その単数性ないし複数性の問題が未解決である。しかしぬりかべとは異なりスマホ落としは今も世界中いたるところで出現が確認されており、その研究には進展が期待できる。記者としても今後を興味深く見守っていきたい。